Isaraニュースの深南部の和平交渉についての記事からまとめです。
●1993年、陸軍第4管区と分離派の休戦協定。この後、カイロとダマスカスでのPULO(パタニー統一解放機構)創設者とタイ政府の非公式会議へ。両者が署名した当会議の覚書は
イスラム協力機構(OIC)へ提出。しかし、軍と政府との争いから波及した騒乱により、陸軍第4管区は、
PULOとの和平協議を白紙撤回。 (追記:BRNによる1995年のタイ政府との交渉の詳細な記録。IsaraNewsの年表とどのように関連するのかは不明。)●1995年、タイを訪れたマレーシア警察長官の提案を受けて、チュアン首相が和平協議を再開。マレーシア警察、タイ陸軍第4管区で構成した合同作業委員会が和平プロセスを模索。同時にタイで容疑者となっている分離主義者の逮捕をマレーシアが合意。1995年ー1997年、マレーシアの協力で4-5人のPULOコアメンバーが逮捕される。しかし、マレーシアが協力したことをタイ側に暴露され、マレーシア側は面目を失い、
結局和平プロセスは停止。 (2002年、タクシン首相はSBPACとタスクフォース33を解散し、任務を警察と軍に移譲。イスラム教徒に対する人権侵害が広がり2004年1月4日のナラティワート武器庫襲撃事件へ発展。)
●2005年、タクシン首相がPULOとBIPP(パタニー・イスラム解放戦線)との協議のためスイスへ人を派遣。2回の協議にもかかわらず
進展なしで頓挫。●翌年、国家安全保障評議会(NSC)の提案で協議が再開。協議は、チッチャイ副首相の監督で行われるが、
進展を見ないまま失敗。
●タクシンが政権を追われた後、スラユット首相が和平プロセスを主導。BRNの指導部が、宗教教師を派遣しタイ政府との話し合いに当たらせる。 しかし、
2008年サマック政権によって停止。
●翌年アビシット政権でマーク博士の率いる政府チームによって再開。ナラティワートの3郡で1ヶ月の停戦にこぎつける。この間起こった事件はわずか8件。(BRNは他の組織が起こしたと主張) 停戦合意は他の郡にも拡大されたが、2011年半ばに
アビシット政権が国会を解散し、総選挙を行ったためあっけなく停止。●2012年、タクシン元首相が和平プロセスに再び関与し始める。同年3月、マレーシアを訪問し、いくつかの分離派グループの16人と非公式に会談を行う。3月31日ハートヤイとヤラーで大規模車両爆弾が爆発。和平に反対する分離派の仕業と考えられている。
2013年2月28日、マレーシアでタイ政府とBRNの和平協議に関する合意署名。
最初の公式な和平協議となる。
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この年表に沿って見ると、2012年にタクシン元首相が和平プロセスをバックアップし始める前には、6回の和平協議の機会があったわけですが、そのうち進展がなく頓挫が2回、
政権交替などのタイ側の都合による放棄が実に4回もあります。
ICGが2012年報告書でタイ政府に対して下記の提案をしたのもこういった背景があります。
a) 党派を超えたコンセンサスを作り出す。できれば紛争の解決は国家の優先課題であるという国家的同意として具体化する。;
b) 首相府が任命する党派に属さない恒常的な組織を設置する。政府内外の尊敬されている人物が参加して反政府側代表者との対話を遂行する。
和平交渉には、タイ側の一環した政策と実行能力が求められています。参照エントリ:
政権交代でも交渉は継続できるか